【インタビュー】渋井哲也さんに聞く子どもの生きづらさと社会に求められること(前編)

長年、多くの若者たちの「生きづらさ」をきくことや、震災があった土地に何度も足を運び、取材を続けてきた、フリーライターの渋井哲也さんにお話を聞いてみました。リヴオンの創設時に大変お世話になった恩人でもあります。
今回は渋井さんに、子どもと自殺、生きづらさをテーマに前編、中編、後編でお届けしていきたいと思います。
クラファン最終日ですが、クラファンが終わったあとも、このテーマを深く知り続けてくださったらありがたいです。

インタビュワーは尾角光美です。

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― 渋井さんは子どもの「生きづらさ」や「自殺」といったテーマと、何年前くらいに、どのようななことをきっかけに出会ったのでしょうか。

渋井:元々は96年ごろに、家出や援助交際していた子たちへの取材から始まりました。この頃は援助交際ブームでした。そのちょっと前の95年に、子どもの権利に関するホームページを作っていました。当時は個人作成のホームページが少なく、Yahooに申請をすると「教育」や「子どもの権利」のカテゴリーに自分のサイトが登録されました。それを見てYahooから来た人がいました。あるいはinfoseek(現在のRakuten infoseek)という検索サイトがあり、そこから来た人がいました。infoseekでは当時「援助交際」で検索すると1番目に、自分のサイトが出てきました。

―渋井さんのページには何が書かかれていたんですか

渋井(以下略):いじめや援助交際をした人の体験談を載せていました。その頃、テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ」で援助交際特集がありました。当時の女子高生たちが、大人が勝手に喋っているのを見て、「わかってないなぁ」みたいな感じでした。そのため、新宿のロフトプラスワンで行われたイベントをTBSの「ニュース23」が特集していました。それを見て、援助交際をしてる子たちの声が届いてないんだなと思い、援助交際の体験談コーナーをより充実させました。

 

―そこで「生きづらさ」とどう関係してくるんですか?

生きづらさという言葉に出会ったのは98年。当時、ネットでは「何々系」って流行っていました。自殺系とか、自傷系とか、メンタルヘルス系とか。ホームページを作ってた子たちが、自分たちは「◯◯系だ」ていう風に思っていて。「ドクター・キリコ事件」(※1)があったので、自殺系っていうのもありました。ちょうどその頃、リストカットしてる子たちがカミングアウトし始めた時期でもありました。そんな中で、摂食障害の取材をした時に「私って生きづらさ系だよね」と初めて耳にしました。その言葉を聞いて、自分のサイトで「生きづらさ系フォーラム」という掲示板をつくりました。

後々調べたら、「生きづらさ」という言葉で朝日新聞でキーワード検索すると、最初に出てくるのは、92年のイベント案内の記事。それが確か、精神障害の話です。おそらくその頃から、精神障害の界隈では全員じゃないけれども「生きづらさ」って言葉が使われてたようです。
生きづらさ系フォーラム作った時は、他のウェブやメディアでは「生きづらさ」って言葉は出てきていたのでしょうか。

まだ出てこない。なので「生きづらさ」という言葉で検索して掲示板にくる人はいなかったです。でも徐々にアクセスする人たちが摂食障害だけじゃなくて。でも、当時、雑誌に原稿書くときは、編集者から「意味がわからないので説明してください」と言われて、3行か5行分ぐらいの説明を書かなきゃいけなかったんです。今だったら「生きづらさ」とそのまま書きますが、当時は、例えば虐待とか いじめなどの悩みを抱えた時に、具体的にカミングアウトするのではなく、家出とか援助交際といった形で行動化をするような人たちを指していました。

―「生きづらさ」というのは個人の問題と見られてきたのでしょうか。

例えば、朝日新聞検索で「生きづらさ」が年間100件を超えるのは2015年。年間150件を超えるのは2017年の座間事件(※2)の頃ぐらいから。 座間事件以降に「生きづらさ」が社会問題として可視化したのでしょう。自殺対策基本法ができた2006年ぐらいの頃も、年間11件。少なくとも、新聞記事では自殺と生きづらさと関連づけられたものは、ほとんどありませんでした。

―「子どもの自殺」はいつ頃から社会の中で取り上げられてきたのでしょうか。

そもそも、最初に日本で子どもの自殺が問題になったのは78年、79年です。その頃は今よりも子どもの自殺が多かったんです。その頃はなぜ問題になったかっていうと、1979年は子供の権利宣言の20年目。国際児童年は国連が作ったんですが、子どもの権利のムードが高まったのに、どうして日本でこんなに子どもの自殺が多いのかということで話題になりました。そのため、総理府青少年対策本部(当時)が、「青少年の非行問題に関する懇話会」を設置し、自殺の調査研究を始めます。これは国の自殺対策としていう視点で見ると、大人より早い。その頃にできた「青少年の自殺に関する研究調査」がありますが、今の子どもの自殺対策について、文部科学省や自殺予防学会でも使われていることと内容がほぼ同じです。

―なぜ、78年あたりに子どもの自殺が多かったのですか?

理由は、ちゃんと分析されていないから、わかりません。ただ、少年犯罪が多い時期でもあるので、いわゆる「戦後の混乱を引きずった」ということで片付けられていたと思います。少年犯罪の場合は戦前からの統計がありますが、子どもの自殺に関しては、その78年から始まったので、それまでとの比較もできません。

―子どもの自殺と生きづらさは関係づけられてきたのでしょうか?

その後、子どもの自殺が問題になるのは1986年です(※3)。アイドル歌手の岡田有希子さんが亡くなったりとか、鹿川くんの(中学での)いじめ自殺があって、連鎖自殺が起きた。でも、いじめとかアイドルの自殺によって連鎖自殺が起きるってことは、当時もともと抱えていた問題がベースにあり、影響されるってことじゃないでしょうか。でも、それが何の問題かは見えにくかったから「連鎖自殺」という形で言われてしまった。もともと抱えていた問題はあったと思うんです。 そこに何らかの生きづらさと関係してるものがあるんだけれど…。ところが、 政府は80年代中盤以降、子どもの自殺の問題を研究しなくなるんですよ。

―なぜ、国は自殺の問題を研究しなくなるんですか。
学校の問題は、最初は自殺問題が取り上げられていたけれど、次第に校内暴力とかいじめとか不登校のほうにいってしまいました。86年の鹿川くんの自殺も背景はいじめ。だから「いじめ問題が深刻だよね」と捉えられていました。そして、数としても自殺よりも、校内暴力が多い。当時、登校拒否と呼ばれていたものも増えていました。ということで、現実的な問題として、自殺よりもこっちの方が深刻じゃないかという動きがあったので、自殺問題が表舞台から消えてしまうんです。

―いつ戻ってくるんですか、

最近です。

 

さてさて、気になるこの続きは<中編>へ。(4/24公開予定)

※1「ドクター・キリコ事件」
1998年に東京都杉並区で起きた自殺志願者に青酸カリが送付されて発生した自殺幇助事件。
※2「座間事件」
神奈川県座間市のアパートの一室で、SNSで自殺願望のある女性をターゲットにして、9名の男女を殺害・解体した。

※3 1986年前後の自殺について
1984 年から 1986 年までに東京都中野区富士見中2年の鹿川裕史君はじめ約30 人がいじめで自殺といじめ仕返しで亡くなった。1986年の岡田有希子さんの自殺に続いて、30名あまりの若者たちが自殺で亡くなった。

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フリーライター 渋井 哲也 
1969年栃木県生まれ。 1993年長野日報社入社。 1998年退社後、フリーに。 若者の生きづらさ、自殺、自傷行為、家出、援助交際、少年犯罪、いじめ、教育問題、ネットコミュニケーション、ネット犯罪などを取材。著書に『ルポ自殺 生きづらさの先にあるのか』(河出書房新社)『ルポ 座間9人殺害事件 被害者はなぜ引き寄せられたのか』(光文社新書)『ウェブ恋愛』(ちくま新書)『明日、自殺しませんか:男女七人ネット心中』(幻冬舎文庫)『ネット心中』(生活人新書)など多数

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